刑務所でサンプリングについて考えた
約6年間、塀の中に居た僕だけど、毎日毎日刑務作業だけをして過ごしてきたわけじゃない。
刑務所には余暇時間というものがあって、その時間帯はある程度制限が緩和されて、各々が好きなように過ごすことができる。とは言え、できることは限られているのだが…
僕の場合、その時間の大半を読書にあててきた。
テレビ視聴や受刑者同士の雑談、囲碁や将棋にといくつかの選択肢がある中から、僕はひたすらに読書を選択してきた。
理由は簡単。一番楽しかったからだ。
刑務所に入ると、これはほとんどの受刑者にあてはまることなんだけど、まず間違いなく娑婆に居た頃よりも読書量が増える。
情報量が減る上に娯楽もなくなることで、読書という選択肢が一気に身近になり、このような現象が起こる。
つまり、刑務所というのはどんな人間性のやつでも、「いっちょ本でも読んでやるか」と思ってしまうくらい退屈な場所だということだ。
そんなこんなで、僕の場合は娑婆に居た頃よりも圧倒的に読書量が増え、加えてその時々で興味が湧いたジャンルの本を幅広く読んだため、これまでの自分なら到底読まなかったであろう内容の本もたくさん読んだ。
そしてあるとき、こんな本を手に取ったわけだ。
『統計学が最強の学問である』
正直詳しいことはわからない。読後の感想としても、なんだかんだと書いてあったけど、一般読者としてはもっと実践的な統計学の利用方法など、身近に感じられる記述が欲しかったなと感じ、なんだかなあと思ったことを今でも記憶している。
ただ一つだけ、鮮明に記憶に残った統計学の理論があった。
”サンプリング”
である。
サンプリングとは、簡単に言うと母集団から標本を抽出して調査し、そこから母集団の性質を統計的に推定する方法のことなのだが、
1000人の中から100人のデータを抜いて調査すれば、1000人全員を調査しなくても大体のことがわかるものだとイメージしてもらえればわかりやすいかと思う。
で、このサンプリングがなぜ僕の記憶に残ったのかというと、僕が居た場所、つまり刑務所は、日本社会という母集団から、標本として抽出された人間が集まった場所だったから。
ってことは、刑務所の中でのカースト的なものや、人間性の分類みたいなものって、もっと大きな数字の日本社会という母集団にあてはめて考えてみても、さほど変わらないんじゃないかって思ったのね。
つまり、刑務所という日本社会のミニチュア版では、社会の全体像を把握することが容易になっていたわけだ。
そんな中で、僕がこれは外の社会でも同じだろうなと強く思ったことが、僕が勝手に作った人間の分布。
クソくだらない人間 : 8割
普通の人 : 1.5割
僕と気の合う人間 : 0.4割
すげぇ人 : 0.1割
刑務所の中で僕が他の受刑者とあまりつるまなかった理由がこの数字に表されていて、95%の人間に対して、僕は興味を抱くことがなかったからだ。
クソくだらねぇやつとか、普通のやつとかと話していても本当につまらないし、時間の無駄だし、マジで話しかけないでくれっていつも思っていたので結構ストレスがたまっていたんだけど、たまにいる気の合う人や、え?なにこの人すごいって思える人とは割りと積極的に話した。
犯罪者というかなりバイアスがかかった標本で採った感覚的なデータではあるけど、これは外の世界でもほとんど変わらない分布なのではと今でも思っている。
「絶対外でもそうだよなーすげーなーサンプリングー」って思っていたので、これがすごく印象深いって話なんだけど、共感は得られないよねきっと(笑)
まあ何が言いたいかっていうと、刑務所は社会の縮図だってこと。
刑務所も娑婆も仕組みや性質は大差ないってこと。
娑婆でなんとなく一緒にいる人とか仕方なく一緒にいる人って、きっと刑務所では一緒にいることのなかった人たちなんだと思う。
感覚が研ぎ澄まされてるから、自分と気の合わない人といるデメリットにストレスを強く感じて、自ら距離を置くことができるのが刑務所。
反対に娑婆では、感覚が鈍りがちなので、近くにいるからというような理由でどうでもいい人と接しがち。自分の時間を失っていることに気がつかないケースが多々あると思う。
今自分は誰と付き合っているのか?
その人は自分と気が合う人なのか?すげぇなって思える人なのか?
刑務所での生活を振り返ることで、改めて自分にこういう問いを投げかけることができる。
どうでもいい人とどうでもいい時間を過ごさないように。
時間は有限、人生は巻き戻せない。
学びを実践に。
ね(川≦ ° )