まつけつの仮釈中日記

おまつの仮釈中日記

大麻の密輸で懲役6年半務めた僕の回顧録的なブログ

刑務所コンテンツの需要と未来

服役経験者が語る刑務所のあれやこれや、というのが本ブログのメインなんだけど、コンテンツ自体に需要はある。

 

 

 

なんでかって、毎年何万人もの人たちが刑務所に入所するんだから、受刑者、出所者、またその関係者からの需要というのは一定数担保されている。

 

 

 

じゃあこのブログに需要があるのかっていうとそれとこれとは別問題なので、こいつ勘違いしてるなとは思わないでほしいんだけども(笑)

 

 

 

それで、じゃあその需要があるコンテンツは、何を基に作り上げられているのかっていうと、それは僕自身の経験なわけ。

 

 

 

逮捕されてから仮出所するまでの約6年の経験から、記憶を辿ってコンテンツを作成している。

 

 

 

こんな個人のマイナーブログを見てもらおうと思うのであれば、専門性を持たせてある分野に特化したものにする必要があるわけだけど、過去の経験に依存した専門性なんて特化させられない。

 

 

 

つまり、このコンテンツは、進歩しないコンテンツってわけ。

 

 

 

なので僕は、服役経験者という過去の経験を基にしている以上、二度三度と服役しなければ進歩させることができない、未来のないコンテンツでブログを運営してることになる。

 

 

 

そしてもちろん、僕はもう二度と刑務所になんて行くつもりはない。

 

 

 

ということであれば、刑務所コンテンツは一人の力では発展させられず、未来がないので限界が来たら終わるより他ない。

 

 

 

なので、どこかのタイミングで全く違う方向にブログの舵を切っていかないといけないんだけど、、、いつか僕が元受刑者だってことも忘れ去られるくらい、違うフィールドでの専門性を発揮していきたいというのが本当のところ。

 

 

 


ま、何が言いたいかって言うと、

過去の経験や事実に頼ったコンテンツに未来はないよってことです。

 


過去の栄光ばっか語る人に未来がないってのもこの話を参考にするとわかりやすいはず(笑)

 


その栄光あと2、3回掴んでからまた話してくれよと。もしくは違う栄光掴みにいってる今の話をしてくれよと。

 


ブログも人間も、昔の話をいつまでもいつまでもしているようじゃダメだってこと。つまんない。

せっかく今を生きてるんだから、今、面白いことをして、それをリアルタイムで話した方が話してる方も聞いてる方も100倍楽しいよね!

 

 

 

 

 

 

 


とは言いつつも、僕はまだしばらく刑務所コンテンツを続ける気満々なので(笑)

 

 

 

よろしくです。

 

 


ね(川≦ °  )

刑務所で実感した夏休みの宿題理論の威力

質問です。

 

 

あなたは学生時代、夏休みの宿題を始めの1週間でやり終えていましたか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん俺はNO。

NOの中のNO、トップオブNO。

最後までNOを言い続けて、最終的には「宿題をなくした」なんて言い訳をして、やらないという選択をしたりもしていた。

 

 

そんな怠け者の俺とは違って、与えられた宿題を早々に片付けてしまう、計画的で実行力のある人も少なからずいたとは思うんだけど、、、

 

 

 

 

 

 

 

え、てか、そんな人ほんとにいるの???(笑)

 

 

 

 

 

 

多くの人にとって、この質問の答えはNOのはず。

 

理由は明確。

 

 

 

 

人は、定められた時間をいっぱいいっぱい使ってタスクをこなすようにできているから。

 

 

 

10分でできることでも、1時間与えられれば、

丸々1時間を使って同じことをしてしまうから。

 

 

 

期限を定める必要性は、これまでの人生で何度も思い知っているはずの重要事項なんだけど、

それを最も鮮明に感じた出来事が、やはり刑務所にいた6年の間にあったわけで。

 

 

 

 

 

一昔前までは、一獄一語と言って、刑務所に入ったら一つの言語を覚えて出てくるべし!という習わしのようなものがあったらしい。

 

思想、政治犯というような、今ではなかなか考えにくい罪状で刑務所に収監される人も多く、そういう人たちは比較的、知性や向上心が高かったということが想像できるんだけど、

俺自身にも、6年という時間を与えられた時、頭には、言語を習得しよう!という強い思いが生まれた。

 

一獄一語の発想になったわけだ。

 

そうして、語学学習の教材を大量に購入し、どんな方法論で臨むべきか、どれが最も効率的なのか、机上で語学を学習するのには十分すぎる時間を持て余しながらゆっくりと考えていった。

 

時間は6年もあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、あっという間に6年が過ぎた(笑)

 

俺は一切期限を定めず、具体的なゴールも決めず、ただ漠然と、6年後に言語能力が上がっていればいいと思って日々を過ごしていた。

 

その結果、当然ながら言語を習得することは叶わなかった。

 

 

具体的なゴールを設定し、与えられた時間から期限を逆算していき、細かく成果を出していくべきだった。

6年という最大値で期間を設定しては、負荷が全くかからず、学習効果が高まらなかったので、もっともっと期間を短く設定し、負荷を与えてタスクの処理速度を上げるべきだった。

 

 

人間は、いや、俺は怠け者だ。

 

 

だからこそ、何かに取り組む時は、必ず期日を設けなければならない。

負荷のかかる時間設定をしなくてはならない。

 

 

やるべきことを後回しにしないために、逆算して時間を切る。

 

 

これが人生のコツであることは間違いない。

 

 

いつでもできるなんて思って、時間を垂れ流して生きてはいけない。

 

 

光陰矢の如し。

人生最期の日を知ることができないことで、日々が無限に続いていくような気がしてしまうけど、それは大きな勘違い。

 

 

一日一日が、とても貴重で限りあるものだという認識は、きっと人生をより良きものにするはず。

 

 

さて、まずは具体的に目標を定めて、そして逆算して期日を切ろう。

 

 

 

 

 

 

 

うーん、、、

やってないことだらけだ(笑)

 

 

ね(川≦ °  )

意見をコロコロ変える人が正しい理由

今日はあるあるな話を一つ。

 

 

 

俺は割と気が変わりやすい方で、

直前に決めたことを撤回して、全く違う判断をすることが多々ある。

 

 

 

そういう時、周りの人間の反応は以下の2つに大別される。

 

 

①「どっちなんだよ」と呆れる。

 

②「意見を変えるな」と意見の変更を否定してくる。

 

 

 

他にも、理由を聞いてから提案をしてきたり、好きにすればいいじゃんと見守ってくれたりという反応があるけど、

今回は上記の2つの反応についてピックアップしたい。

 

 

 

なぜなら、上記の2つの反応を取られた時は、

俺自身不安になることがほんとにたまーにだけどあるから。

 

 

呆れられた時は、

意見や決定が二転三転することにより、信用を落としているのではないか、という点について、

否定された時は、

自らの判断に間違いがあるのではないか、以前の判断の方が正しいのではないかという点について、

 

不安になることがある。

 

 

 

 

 

意見や判断が変わる要因というのは、ささいなことから決定的なことまで、とても幅が広く、正直全てを把握することはできない。(気温や気圧、座っている椅子の硬さでさえ、判断に影響を与えていることに俺たちは気づいていない)

 

 

 

なので、実はその時には全く意識していなかった外的要因に左右され判断を変えた結果、物事が悪い方向に進んでしまっていることもあるかもしれないのだ。

(そうなると、当人は論理的な理由で判断を変えたとしても、実は違う理由で変えてたかもしれないんだよきみ、気づいてないと思うけど。って話になる。怖い)

 

 

 

ま、原因がなんであれ、

周りの人間に呆れられ、否定された判断がもたらした結果が悪いものであれば、

 

「ほらな」

 

「だから言っただろ」

 

って言われることになるんだけど、

こんなのはほんとウルトラスーパー結果論で、もしうまくいってたらこの人たちはなんと言っていただろうか。

 

 

 

なんも言わないか、、、

皮肉を言うか、手のひら返して賞賛するか。

 

 

 

 

何が言いたいかと言うと、

反応が予測できるので、もうこういうことを言う人たちはゲームのコンピュータキャラと一緒だってこと。

コンピュータが言ってることなんかボタン連打でスルーするよね?

 

 

 

 

つまり、信じるべきは、

 

 

 

 

自分自身で責任が取れる、その時の自分の最新の考え。

 

 

 

 

だってその考えって、最新の自分の、

今までで一番経験値の多い自分の意見なわけでしょ?

過去の自分の方が間違いなく経験値は低いはず。

だったら最新版にアップデートされた自分の意見を採用する方が賢いよね。

 

 

 

間違っていようが正しかろうが、そこはほんとにどっちでもいいんだって。

 

 

予測の確度を上げる努力は必要だけど、

個人の判断においてそんなもの誤差でしかないから!

他人の判断の方が確度が極端に高いなんてこともそうそうない。

もしそういうことがあったとしたら、その人たちの伝え方はめちゃくちゃアップデートされてるから、不安になったりせずに素直に採用することになるから安心して。

 

 

 

だから、世の中あるあるに対する基本的な選択としては、

 

 

今の自分の判断を信用して、それに対して全責任を持つ!!!

 

 

これに尽きる。

 

そんでもってその後で、

〝あの時の判断〟についてのフィードバックをすればいいわけだ。

そしたらまた経験値が上がる。

そしてまた、その時の最新版の自分の判断を信じて採用する。

 

この繰り返しでいい。

 

 

 

俺はこう決めてるから、

他人の戯れ言に惑わされなくて済む。

 

人に相談する必要もなくなる。

 

そしたら時間が節約できて、その分自分の思考を洗練させるために時間を使うことができる。

 

 

 

 

 

うーん、良いことしかない。

 

 

超オススメです(笑)

 

 

ね(川≦ °  )

理想ばかり語る方がいいに決まってる

自分の考えや理想を語ると、時として批判を受けることがある。

 

 

 

 

 

 

 

けれども、その批判に対して反論を重ねていけば、自分の意見はより強固なものになる。

 

 

だから声を小さくしてはいけない。

理想を語り続けなければならない。

 

 

それをやめてしまった者は、もうその理想に近づくことはできないのだから。

 

 

 

 

 

 

それでもね、やっぱボッコボコに批判されて、ついでに人格否定までされると、さすがにヘコむことがある。

 

 

あー俺間違ってんだ。こんなに言われなきゃいけないならもういいやって思ってしまうことがある。

 

 

でもね、

いくら現状が理想とかけ離れていようが、

口だけで行動が伴っていないと言われようが、

綺麗事ばっか並べているように見られようが、

 

 

理想を語り続けていれば、少しずつ自分の言動と行動の差は埋まっていく。

 

 

言ってることとやってることが違うってのは脳が気持ち悪がるから、

そういう時は脳が理想に近づくための判断機会を与えてくれる。

 

 

ほんとに。一旦止まるよ。あれ?これをこうしたら言ってることとやってることが矛盾するよな…って。

 

 

理想を語ることを止めて、その他大勢の意見に流されてしまったら、もう脳は止まってくれない。

 

 

 

 

だから、夢を、理想を、語り続ける。

 

 

 

 

現実を理想に近づけるための行動は、言動と行動の差がある時に生まれるのだから。

 

 

 

 

 

 

つまり、

 

 

今の自分とは全く違うことを言い続けることは、自分がそこに近づくための正しい方法の一つってわけ。

 

 

 

 

 

 

誰に何言われたって別によくね?

無理だ無理だって言われたって関係なくね?

言動と行動の矛盾を指摘されたって、それが理想に近づくための伸びしろだってことで、逆に安心できるよ。

 

 

 

実際にできるかどうかはさておき、

何も言わないやつより、言ってるやつの方が可能性があるということを俺は主張したい。

 

 

 

そしてそういう人を見てる方が面白い。

俺もそういう見られ方をされたいと思うし。

 

 

 

主人公が何も語らずにただ日々を過ごすだけのドラマより、

主人公がビックマウスで壁に跳ね返されながらも少しずつ理想に近づいていくドラマの方が面白い。

 

 

 

 

 

 

人生ってなんなんだろって考えた時に、俺はこう思った。

 

 

 

人生はドラマだと。

面白いドラマだと。

 

 

 

俺は今、ドラマを面白く展開させられているか?

視聴者は俺。

俺が面白いと思うドラマは、誰がなんと言おうが面白い。

何人が見てるかより、誰が見てるかの方がいつだって大事。

俺が見るのをやめたら終わり。

 

 

 

まだまだこれからです。

 

 

 

 

ね(川≦ °  )

環境に適応した人は''ある力''を失う

初めて留置場に入った時、

その後拘置所へ移管となった時、

そして刑務所へ収監された時、

 

 

毎度のごとく、こんな所でやっていけるわけがない。長い時間を過ごせるわけがない。

 

 

そう思っていた。

 

一日経ち、また一日経ち、、、

と、いくら時が過ぎても辛さは変わらず、環境に慣れず、

先の見えない生活にいつ終わりが来るのか、俺は本当に外に出られるのか?

そんなことばかり考えて、嘆きながら日々を過ごしていた。

 

 

 

 

そんな俺だけど、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはりいつの間にか環境には慣れていた(笑)

 

 

 

 

 

不思議なものですね。

気がつくと前を向いて無心になって生きているんですから。

 

刑務所内での部屋が変わろうが、作業場が変わろうが、他の人間が入れ代わり立ち代わりしようが、

 

 

 

 

 

 

 

必ず慣れる。

 

 

 

 

 

 

 

そして、ある時気がつく。

 

人間ってどんな悲惨な状況に居ても時間が経てば慣れるんだ・・・

あ、もしかしてこれが適応ってやつなのか?と。

 

きっとそう。これが適応ってやつで間違いない。

最初はアレルギー反応を起こそうとも、ストレスを強く感じようとも、

やはり一定の時間が経過すると慣れる。適応する。

 

俺は比較的適応能力が高いのではとの自負があるので、

それが功を奏したのか、刑務所内での評価も高いほうだった。

 

というか、トップオブトップだった(笑)

 

Ⅰ種1類といっても一般の人には通じないんだけども、

プリズンカーストの頂点だと思ってもらえればわかりやすいでしょう。

(Ⅰ種~Ⅴ種、1類~5類まであり、刑務所内での行動制限の範囲が違う)

 

そのおかげもあってか、仮釈放もかなり早い時期に認められたと思う。

 

 

 

 

前置きが長くなったけど、どんな状況にも慣れ、つまり環境に適応してしまうとどうなるのかってことを今回は主張したい。ズバリ、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

環境に適応した人間から、革命を起こす能力を失っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

環境に適応するのは生きていくためだし、それはそれで素晴らしい能力なんだけども、

でも、環境に適応してしまったら、その環境に変化を起こそうとする理由を失ってしまう。

行動する気概を失ってしまう。

より良き未来へのビジョンを失ってしまう。

 

反対に、環境に適応できない、しない人間は、その環境に変化を起こそうともがく。

もがいてもがいてもがいて、戦う。

自分が負けるか、既存の環境を負かすかの、人生を賭けた戦いに挑むことができる。

 

それはとても利己的で、周りの迷惑など少しも顧みないような行いかもしれない。

けれども、いつだって社会に革命をもたらしてきたのは、現状に満足しない、

環境に適応しない人たちだったのではないか。

 

社会の縮図である刑務所というサンプリングされたコミュニティでもそれは同じだった。

やはり、声をあげるのは、変化を起こそうとするのは、環境に適応しきれていないはみ出したやつだった。

 

 

声をあげて変化を求めれば、それは革命の発端となる。

 

 

利己的すぎるほどに利己的に生きる人間が求める変化を社会が許容した時、

そこに進歩が生まれる。

 

 

 

俺は今の環境に適応しきって生きているだろうか?

いいや、不満だらけ、おかしなことだらけだ。

 

現状に満足して生きる?

そんなカスみたいな人生お断り。

俺は変化を求めて生きる。

 

革命を起こそうなんてつもりはないけど、環境に適応だけして生きていくつもりもない。

既存の環境に適応できないのなら、環境の方を変えてしまえばいい。

環境は変えられないって思ってしまうのなら、それは完全に思い込み。

どんな事象も変わりながらでしか維持できない。

目を見開いて、変化している様々なものを見なければいけない。

 

 

 

環境に適応できないやつは淘汰されるって?

 

そう考える人は自分で何も生み出せない人。

環境に依存した生き方に精を出して、淘汰されないようにしこしことしょぼい遺伝子を残していけばいいんじゃない。

 

 

 

俺は、例えクソ貧乏のまま何も残せず最悪な終わりを迎えようとも、

はみ出して生きる。

おかしいって言われ続けて生きる。

 

何かを差し出さないと、何も得られない。

俺は常識的な人生と外からの評価を差し出す。

 

手に入れたいものは明確だ。

 

新しい景色、すなわち変化だ!!!

 

 楽しすぎる。

 

 

 

ね(川≦ °  )

受刑者が持たざる移動の自由とは

先日、友達が東京で舞台に出るというのですぐに東京に行った。

すごく簡単だった。

 

月末には、温泉に行きたいから近隣県の温泉に足を運ぼうと思う。

これもまた簡単なこと。

 

 

他にも行きたい場所はたくさんある。

色々な場所へ行って、色々な経験をしたい!

 

そこで少し考えてみた・・・

 

 

 

 

そのたくさんの行きたい場所に、すぐに行けない理由って何かあるだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

改めて考えてみると、すぐに行けない理由なんてない。

行こうと思えば間違いなく行ける。

だってどこかへ移動するのは俺の自由なんだから。

 

 

 

じゃあ、行きたいのに行かない理由は何かあるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事があるから行けないと言い、

日程の都合をつけようとせず、先延ばしにしている。

旅費がないから行けないと言い、

旅費なんて数ヶ月もあれば貯められるはずなのに、貯めようとしていない。

 

 

つまり、行こうとしていないから行っていないわけだ。

 

 

 

それって本当にもったいない。

だって、移動はいつだって自由なんだから。

それに、移動を実現しようとしていない以上、その思考には価値がない。

だとしたら、行きたいって思い続けてることが時間とエネルギーの無駄になる。

いつか行くかも、機会があれば・・・とかそういうのは無駄。

思ったのならすぐに段取りして行けばいい。

行こうとしないのなら思う必要がない。

 

 

 

だから、自分の中で行きたい場所について考える時は、

「行きたい場所があるか?」じゃなくて、

「行こうとしている場所があるか?」という問いに変えた方がいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたには今、行こうとしている場所がありますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

こう聞かれると、あれ?と引っかかる。

行きたい場所ならたくさんあるけど、

行こうとしている場所はないかも、と。

 

 

 

でも、そう思ったのならそれはチャンス。

 

 

 

行きたい場所を、行こうとしている場所に変えてしまえばいい。

 

 

 

行けない理由って、なんかある?

ネット予約でもして移動手段を確保すれば、すぐにでも行ける。

だって移動は自由じゃん。

 

 

 

移動が自由なのは、俺自身が日々の生活の中でついつい忘れてしまいがちなことなんだけど、

めっちゃくちゃ重要なことだと思う。

 

 

 

だって、自由の根幹じゃんこれ。

経済的自由も身体的自由も、精神的自由も、移動の自由があってこそ最大限に価値を発揮できる。

なんなら、これら全ての自由は、移動の自由を行使することで得られるものだったりする。

 

 

お金がありあまるほどあっても、行きたい場所に行けないんじゃ、ずっと同じ場所で生活するしかない。それって使いたいことにお金使えなくない?

 

身体が自由でも、行きたい場所に行けないんじゃ、ずっと同じ場所で生活するしかない。それって身体の自由持て余さない?移動できないんだよ。

 

精神が自由でも、行きたい場所に行けないんじゃ、ずっと同じ場所で生活するしかない。どんだけ心は自由だって強がっても、そんな生活って実際は精神の衛生状態最悪じゃないか?

 

 

つまり、人間は自由に移動することで、他の全ての自由を手にすることができるわけだ。

 

 

何をするにしても、移動することが最初の一歩となる。

もちろん大前提として考える頭は必要なんだけど。

 

否定的な言い方をするなら、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

移動しないやつは、自由を手に入れられない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、俺は今、どこに行こうとしているかな。

次はいつ、どこに行くのか。

先延ばしにして時間とエネルギーを無駄にしている場合じゃない。

 

 

 

こう思うようになったのも、全く移動が自由でない刑務所という狭い場所で6年間過ごしたからで、この自由の恩恵を手に入れた今に心の底から感謝しているから。

 

あの頃なんて、3畳一間の施錠された窓の外の景色もよくわからないような密室で、

るるぶ東京』を見て、

あー東京行きてぇー、六本木で遊びてぇーって思いながらほんとに泣いてた(笑)

 

この先6年間、この3畳一間から出られません。って言われた時のショックときたらもう・・・

1年経っても、2年経っても、3年経っても、4年経っても、5年経っても行きたい所に行けなかったフラストレーションたるやもう・・・想像できる?(笑)

 

 

こんなに簡単に東京まで移動できる今の日々が俺は幸せ。

自由に移動できるって本当に素晴らしいこと。

これこそが自由!!!

 

 

 どこにでも行ける!すぐにでも!!!

 

 

 

ね(川≦ °  )

刑務作業を通じて学んだ仕事の生産性の上げ方

刑務所で行う仕事は刑務作業と呼ばれ、

その作業の対価として、国から作業報奨金というものがもらえる。

 

要するに、刑務所での労働にもしっかりと時給が発生するということです。

 

おそらく、刑務所を知らない人が気になるのは、どんな仕事があって、一体いくら給料をもらっているの?

ってとこだと思うけど、ほんとに色々な作業があるからぜひググってみてほしい。

 

給料に関して言うと、俺なんかは初月の時給が確か・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2円

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だったはず。

雀の涙って言葉を初めて使ったくらい衝撃的な時給だった。

しかも2円の後に44銭とかっていう、見たことのない単位で時給が発生していたのを今でも覚えている。

 

その時たしか、こらえきれずに刑務官に質問してみたんだけど、

 

 

ま「す、すみません。銭ってなんですか?僕は銭をもらえるんですか?」

 

刑「ばかおまえ、銭は100銭で1円になるんだろうが。1円になったら使えるようになるんだからそれまで待っとけ」

 

 

という回答を得て、深く納得した覚えがある(笑)

純粋に、ああ、なるほどねって思ったもんな。

 

 

そんなこんなで、懲役生活5年3ヶ月、平日はほとんど休まずに毎日朝から晩まで働いて貯めた作業報奨金を、出所時に国からもらったわけだけど、その額なんと、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

25万円

 

 

 

 

 

 

 

 

 

友達に話したら、結構あったんだねって言われることも多いんだけど、よく考えてみてほしい。

単純に割っても年収5万円⇛月給4000円⇛日給200円。

これって結構多いのか!?

俺としては、え、これ大丈夫!?俺はこの資本主義社会で本当に社会復帰できるのか!?って不安になる金額だったのだが。

 

結果的には無事に社会復帰できてるんだけど、それも家族や友人のたくさんの援助があったからで、一人でなんとかしろって言われたら結構厳しかったんじゃないかな。そうなったらそうなったで国が用意している様々な制度を利用して、しぶとく生きていたんだろうけど。

 

 

そんなこんなで、社会生活を営む多くの人達と同じように、俺も長年フルタイムで働いてきたわけで、仕事について考える時間は割と多かったと思う。

 

そこで、俺が刑務所での仕事を通じて学んだことを、簡潔に言ってみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仕事は、仕事から価値を見出そうとするんじゃなくて、価値を設定してからすべきもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺はまあ大体、ハンガーのシール剥がしとか、スプーンの袋詰めとか、ビニール袋にチラシを入れるとか、紙袋を作るとか、鶴を折るとか、そういう迫力のある仕事を刑務所の中でやってきたわけなんだけど、

 

 

控えめに言っても、あれはやっぱり無駄な時間だったなぁと思う。

 

 

自分にとって価値のない仕事を、どれだけ努力して数こなしたところで、何も生まれなかったし、何も得られなかった、と今でもはっきりと言える。

 

無駄に思える膨大な時間を過ごしたことで、仕事とは、

 

仕事から価値を見出そうとするんじゃなくて、価値を設定してからすべきものだ、と身にしみて思った。

お金を稼ぐためにこれをする、貧しい人々の助けになるためにこれをする、世の中のここを変えるためにこれをする・・・等々。

自分がすべきでない仕事から、価値を見出そうとする時間は非生産的。

しかもそういう時って、どんな価値があるのかわかっているからこそ無駄だと感じてるわけで、価値を見出そうとする行為はただのこじつけに過ぎない。

 

 

 

 

だから俺は、そういう非生産的な時間は過ごさずに、自分にとって価値がある仕事しかしない。

仕事も人生も、常に生産性上げまくっていきたいからね!

 

 

 

 

限りある人生の時間、仕事を通して得られるだろう価値を設定してから、その価値を得るために本気で努力して仕事をすべきだと、刑務所での膨大な無駄な時間を過ごしながら感じたのでした。

 

 

 

 

 

 

ね(川≦ °  )