まつけつの仮釈中日記

まつけつの仮釈中日記

大麻の密輸で懲役6年半務めてきた僕の回顧録的なブログ

刑務所は社会の縮図です。独房で統計学の本を読んで気づいたこと

約6年間、塀の中に居た僕だけど、毎日毎日刑務作業だけをして過ごしてきたわけじゃない。

 

 

刑務所には余暇時間というものがあって、その時間帯はある程度制限が緩和されて、各々が好きなように過ごすことができる。とは言え、できることは限られているのだが…

 

 

僕の場合、その時間の大半を読書にあててきた。

テレビ視聴や受刑者同士の雑談、囲碁や将棋にといくつかの選択肢がある中から、僕はひたすらに読書を選択してきた。

 

 

理由は簡単。一番楽しかったからだ。

 

 

刑務所に入ると、これはほとんどの受刑者にあてはまることなんだけど、まず間違いなく娑婆に居た頃よりも読書量が増える。

 

情報量が減る上に、娯楽もなくなることで、読書という選択肢が一気に身近になるため、このような現象が起こる。

 

つまり、刑務所というのはどんな人間性のやつでも、「いっちょ本でも読んでやるか」と思ってしまうくらい退屈な場所だということだ。

 

 

そんなこんなで、僕の場合は娑婆に居た頃よりも圧倒的に読書量が増え、加えてその時々で興味が湧いたジャンルの本を幅広く読んだため、これまでの自分なら到底読まなかったであろう内容の本もたくさん読んだ。

 

 

そしてあるとき、こんな本を手に取ったわけだ。

 

 

 

 『統計学が最強の学問である』

 

正直詳しいことはわからない。読後の感想としても、なんだかんだと書いてあったけど、一般読者としてはもっと実践的な統計学の利用方法など、身近に感じられる記述が欲しかったなと感じ、なんだかなあと思ったことを今でも記憶している。

 

 

ただ一つだけ、鮮明に記憶に残った統計学の理論があった。

 

 

 

”サンプリング”

 

 

 

である。

サンプリングとは、簡単に言うと母集団から標本を抽出して調査し、そこから母集団の性質を統計的に推定する方法のことなのだが、

 

1000人の中から100人のデータを抜いて調査すれば、1000人全員を調査しなくても大体のことがわかるものだとイメージしてもらえればわかりやすいかと思う。

 

 

で、このサンプリングがなぜ僕の記憶に残ったのかというと、僕が居た場所、つまり刑務所は、日本社会という母集団から、標本として抽出された人間が集まった場所だったから。

 

 

ってことは、刑務所の中でのカースト的なものや、人間性の分類みたいなものって、もっと大きな数字の日本社会という母集団にあてはめて考えてみても、さほど変わらないんじゃないかって思ったのね。

 

 

つまり、刑務所という日本社会のミニチュア版では、社会の全体像を把握することが容易になっていたわけだ。

 

 

そんな中で、僕がこれは外の社会でも同じだろうな強く思ったことが、僕が勝手に作った人間の分布。

 

 

クソくだらない人間 : 8割

普通の人 : 1.5割

僕と気の合う人間 : 0.4割

すげぇ人 : 0.1割

 

 

刑務所の中で僕が他の受刑者とあまりつるまなかった理由がこの数字に表されていて、95%の人間に対して、僕は興味を抱くことがなかったからだ。

 

クソくだらねぇやつとか、普通のやつとかと話していても本当につまらないし、時間の無駄だし、マジで話しかけないでくれっていつも思っていたので結構ストレスがたまっていたんだけど、たまに居る気の合う人や、え?なにこの人すごいって人とは割りと積極的に話した。

 

犯罪者というかなりバイアスがかかった標本でとった感覚的なデータではあるけど、これは外の世界でもほとんど変わらない分布なのではと今でも思っている。

 

 

「絶対外でもそうだよなーすげーなーサンプリングー」って思っていたので、これがすごく印象深いって話なんだけど、共感は得られないよねきっと(笑)

 

 

まあ何が言いたいかっていうと、刑務所は社会の縮図だってこと。

刑務所も娑婆も仕組みや性質は大差ないってこと。

 

 

娑婆でなんとなく一緒にいる人とか仕方なく一緒にいる人って、きっと刑務所では一緒にいることのなかった人たちなんだと思う。

 

感覚が研ぎ澄まされてるから、自分と気の合わない人といるデメリットにストレスを強く感じて、自ら距離を置くことができるのが刑務所。

 

反対に娑婆では、感覚が鈍りがちなので、近くにいるからというような理由でどうでもいい人と接しがち。自分の時間を失っていることに気がつかないケースが多々あると思う。

 

 

今自分は誰と付き合っているのか?

その人は自分と気が合う人なのか?すげぇなって思える人なのか?

 

 

刑務所での生活を振り返ることで、改めて自分にこういう問いを投げかけることができる。

 

 

どうでもいい人とどうでもいい時間を過ごさないように。

時間は有限、人生は巻き戻せない。

学びを実践に。

 

 

 

 

ね(川≦ °  ) 

 

インスタやめたら生活にハリが出た件

皆さんご存知”Instagram"。

 

 

僕が逮捕された2012年1月当時は全く流行っていなかったアプリなんだけど、出所してみたらどこもかしこもインスタばえを求めるギャルたちで溢れかえっていたんだっけ・・・(そんなことはないか)

 

 

仮出所した当時は、インスタ?なにそれ食べれるの?みたいなスタンスを崩さずに、とにかく生きた情報を手に入れようとたくさんの友人に話を聞いてまわったんだけど、いまいち魅力がわからなかったインスタ。

 

 

6年間ずっと紙媒体から情報を得ていた僕にとって、画像から得られる情報って本当に少なく感じられて、一体みんな画像にどんな情報を求めているの?ふーむ、謎だ。としか思っていなかった。だから登録もしていなかった。

 

 

そんな僕がインスタを始めるきっかけとなった友人の言葉がある。それは・・・

 

 

「女の子と繋がるきっかけになるよ。インスタ。」

 

 

である。

 

友人曰く、かわいい子はもれなくインスタをやっていると。

なのでかわいい子と知り合った際に、こちらがインスタをやっているかどうかは今後の関係性を発展させていく上でかなり大きな重要性を持っている。

インスタ上での絡みによって親密度が上がって、あんなことやこんなことに繋がること、意外と多いんだぜ?とのことだった。

 

 

6年間悶々とした日々を過ごしてきた僕にとって、インスタについてこんな風に語る友人の姿はとても神々しく見えたわけだ。

 

 

そうして張り切りまくってインスタに参加した僕だったが、先日、1年2ヶ月程楽しんだインスタを退会する運びとなった。

 

 

結果的にあの時の友人の言葉は正しく、インスタを通して男女問わず古い友人から新しく出会った人まで、多くの人達と親密度を上げることができた。

 

 

と同時に、ストーリーズという機能によって、フォローしている人たちの日常をリアルタイムで追うことができたり、また、自らの自己顕示欲を発散するために頻繁に短い動画をアップしてしまうことで、かなりの時間を浪費してしまっていた。

 

 

本当に多くの時間を浪費してしまっていた。

 

 

暇があってもなくてもインスタを開いてしまう、そういう病にかかっていた。

 

 

そして、そこから得られる情報といえば、友人たちの日常、、、ただそれだけだった。

ドーパミンは出るんだけど、実際にそこから得られるものなんてほとんどなかったわけだ。

わかっていても開いてしまう、見てしまう、そういうのは本当に薬物やゲームなんかと同じなんだと思う。

 

 

ってことでスッパリとインスタをやめてみたんだけど、、、

 

 

 

 

 

 

めちゃいい!!!

 

 

 

 

 

インスタをやめてからは、ずっと読まずに溜まっていた有料メルマガや、ニュースアプリの記事、ツイッターなんかをインスタのかわりに開くようになって、入ってくる情報の質がかなり改善された。

本当にいい。これは例えるなら薬物依存者が薬物から抜け出して、朝早起きして太陽を浴びて、あぁ、気持ちいいなぁ・・・って思う感覚!!!(知らんけど)

 

 

そうすると、生活にハリが出てくる。インスタを開きまくることで思考停止していた脳がまた少しずつ動き出してくる。

 

 

もちろんインスタ自体を否定しているわけではない。インスタを使うことで様々な価値を生み出している人も多いし、実際得られる情報ってのもある。

でも、あえて言いたい。

おそらくほとんどのユーザーがカモられている、と。

 

 

インスタにログインしている時間対効果を考えてみてほしい。

その時間でどんな情報を得られたのか、それは自分の人生にどのように役に立つのか。

自分が発信している情報は誰にとってどんな価値があるのか。

インスタが商売に繋がっていない人にとってはゲームと同じでほとんど時間の無駄になっているんじゃないかな。

 

 

そんなことないよ!って人はそれでいいし、確かにそうかもしれない・・・って思う人はすぐにやめるべきだと思う。人生は短い。より有意義なことに時間を使うべきだよ。

 

 

 

さて、皆さんはどうでしょうか。

 

 

 

ね(川≦ °  )

刑務所コンテンツの需要と未来

服役経験者が語る刑務所のあれやこれや、というのが本ブログのメインなんだけど、コンテンツ自体に需要はある。

 

 

 

なんでかって、毎年何万人もの人たちが刑務所に入所するんだから、受刑者、出所者、またその関係者からの需要というのは一定数担保されている。

 

 

 

じゃあこのブログに需要があるのかっていうとそれとこれとは別問題なので、こいつ勘違いしてるなとは思わないでほしいんだけども(笑)

 

 

 

それで、じゃあその需要があるコンテンツは、何を基に作り上げられているのかっていうと、それは僕自身の経験なわけ。

 

 

 

逮捕されてから仮出所するまでの約6年の経験から、記憶を辿ってコンテンツを作成している。

 

 

 

こんな個人のマイナーブログを見てもらおうと思うのであれば、専門性を持たせてある分野に特化したものにする必要があるわけだけど、過去の経験に依存した専門性なんて特化させられない。

 

 

 

つまり、このコンテンツは、進歩しないコンテンツってわけ。

 

 

 

なので僕は、服役経験者という過去の経験を基にしている以上、二度三度と服役しなければ進歩させることができない、未来のないコンテンツでブログを運営してることになる。

 

 

 

そしてもちろん、僕はもう二度と刑務所になんて行くつもりはない。

 

 

 

ということであれば、刑務所コンテンツは一人の力では発展させられず、未来がないので限界が来たら終わるより他ない。

 

 

 

なので、どこかのタイミングで全く違う方向にブログの舵を切っていかないといけないんだけど、、、いつか僕が元受刑者だってことも忘れ去られるくらい、違うフィールドでの専門性を発揮していきたいというのが本当のところ。

 

 

 


ま、何が言いたいかって言うと、

過去の経験や事実に頼ったコンテンツに未来はないよってことです。

 


過去の栄光ばっか語る人に未来がないってのもこの話を参考にするとわかりやすいはず(笑)

 


その栄光あと2、3回掴んでからまた話してくれよと。もしくは違う栄光掴みにいってる今の話をしてくれよと。

 


ブログも人間も、昔の話をいつまでもいつまでもしているようじゃダメだってこと。つまんない。

せっかく今を生きてるんだから、今、面白いことをして、それをリアルタイムで話した方が話してる方も聞いてる方も100倍楽しいよね!

 

 

 

 

 

 

 


とは言いつつも、僕はまだしばらく刑務所コンテンツを続ける気満々なので(笑)

 

 

 

よろしくです。

 

 


ね(川≦ °  )

時間に余裕があると、やるべきことを後回しにしがち。解決策は、、、

質問です。

 

 

あなたは学生時代、夏休みの宿題を始めの1週間でやり終えていましたか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん俺はNO。

NOの中のNO、トップオブNO。

最後までNOを言い続けて、最終的には「宿題をなくした」なんて言い訳をして、やらないという選択をしたりもしていた。

 

 

そんな怠け者の俺とは違って、与えられた宿題を早々に片付けてしまう、計画的で実行力のある人も少なからずいたとは思うんだけど、、、

 

 

 

 

 

 

 

え、てか、そんな人ほんとにいるの???(笑)

 

 

 

 

 

 

多くの人にとって、この質問の答えはNOのはず。

 

理由は明確。

 

 

 

 

人は、定められた時間をいっぱいいっぱい使ってタスクをこなすようにできているから。

 

 

 

10分でできることでも、1時間与えられれば、

丸々1時間を使って同じことをしてしまうから。

 

 

 

期限を定める必要性は、これまでの人生で何度も思い知っているはずの重要事項なんだけど、

それを最も鮮明に感じた出来事が、やはり刑務所にいた6年の間にあったわけで。

 

 

 

 

 

一昔前までは、一獄一語と言って、刑務所に入ったら一つの言語を覚えて出てくるべし!という習わしのようなものがあったらしい。

 

思想、政治犯というような、今ではなかなか考えにくい罪状で刑務所に収監される人も多く、そういう人たちは比較的、知性や向上心が高かったということが想像できるんだけど、

俺自身にも、6年という時間を与えられた時、頭には、言語を習得しよう!という強い思いが生まれた。

 

一獄一語の発想になったわけだ。

 

そうして、語学学習の教材を大量に購入し、どんな方法論で臨むべきか、どれが最も効率的なのか、机上で語学を学習するのには十分すぎる時間を持て余しながらゆっくりと考えていった。

 

時間は6年もあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、あっという間に6年が過ぎた(笑)

 

俺は一切期限を定めず、具体的なゴールも決めず、ただ漠然と、6年後に言語能力が上がっていればいいと思って日々を過ごしていた。

 

その結果、当然ながら言語を習得することは叶わなかった。

 

 

具体的なゴールを設定し、与えられた時間から期限を逆算していき、細かく成果を出していくべきだった。

6年という最大値で期間を設定しては、負荷が全くかからず、学習効果が高まらなかったので、もっともっと期間を短く設定し、負荷を与えてタスクの処理速度を上げるべきだった。

 

 

人間は、いや、俺は怠け者だ。

 

 

だからこそ、何かに取り組む時は、必ず期日を設けなければならない。

負荷のかかる時間設定をしなくてはならない。

 

 

やるべきことを後回しにしないために、逆算して時間を切る。

 

 

これが人生のコツであることは間違いない。

 

 

いつでもできるなんて思って、時間を垂れ流して生きてはいけない。

 

 

光陰矢の如し。

人生最期の日を知ることができないことで、日々が無限に続いていくような気がしてしまうけど、それは大きな勘違い。

 

 

一日一日が、とても貴重で限りあるものだという認識は、きっと人生をより良きものにするはず。

 

 

さて、まずは具体的に目標を定めて、そして逆算して期日を切ろう。

 

 

 

 

 

 

 

うーん、、、

やってないことだらけだ(笑)

 

 

ね(川≦ °  )

世の中あるある〜アップデートされている自分を信じなきゃいけない時〜

今日はあるあるな話を一つ。

 

 

 

俺は割と気が変わりやすい方で、

直前に決めたことを撤回して、全く違う判断をすることが多々ある。

 

 

 

そういう時の、周りに居る人間の反応は大体決まっている。

 

①「どっちなんだよ」と呆れる。

 

②「意見を変えるな」と意見の変更を否定してくる。

 

 

この二つ。

 

他にも、理由を聞いてから提案をしてきたり、好きにすればいいじゃんと見守ってくれたりという反応があるけど、

今回は上記の二つの反応についてピックアップしたい。

 

 

 

なぜなら、上記の二つの反応を取られた時は、

俺自身不安になることがほんとにたまーにだけどあるから。

 

 

呆れられた時は、

意見や決定が二転三転することにより、信用を落としているのではないか、という点について、

否定された時は、

自らの判断に間違いがあるのではないか、以前の判断の方が正しいのではないかという点について、

 

不安になることがある。

 

 

 

 

 

意見や判断が変わる要因というのは、ささいなことから決定的なことまで、とても幅が広く、正直全てを把握することはできない。(気温や気圧、座っている椅子の硬さでさえ、判断に影響を与えていることに俺たちは気づいていない)

 

 

 

なので、新たな判断が後々悪影響を及ぼすことになれば、

その時には全く意識していない外的要因に左右されて、判断がブレた結果そうなったという、なんだかショボい話になるかもしれない。

(そうなると、当人は論理的な理由で判断を変えたとしても、実は違う理由で変えてたかもしれないんだよきみ、気づいてないと思うけど。って話になる。怖い)

 

 

 

ま、原因がなんであれ、

周りの人間に呆れられ、否定された判断がもたらした結果が悪いものであれば、

 

「ほらな」

 

「だから言っただろ」

 

って言われることになるんだけど、

こんなのはほんとウルトラスーパー結果論で、もしうまくいってたらこの人たちはなんと言っていただろうか。

 

 

 

なんも言わないか、、、

皮肉を言うか、手のひら返して賞賛するかだよね(笑)

 

 

 

 

何が言いたいかと言うと、

反応が予測できるので、もうこういうことを言う人たちはゲームのコンピュータキャラと一緒だってこと。

コンピュータが言ってることなんかボタン連打でスルーするよね?

 

 

 

 

つまり、信じるべきは、

 

 

 

 

自分自身で責任が取れる、その時の自分の最新の考え。

 

 

 

 

だってその考えって、最新の自分の、

今までで一番経験値の多い自分の意見なわけでしょ?

過去の自分の方が間違いなく経験値は低いはず。

だったら最新版にアップデートされた自分の意見を採用する方が賢いよね。

 

 

 

間違っていようが正しかろうが、そこはほんとにどっちでもいいんだって。

 

 

予測の確度を上げる努力は必要だけど、

個人の判断においてそんなもの誤差でしかないから!

他人の判断の方が確度が極端に高いなんてこともそうそうない。

もしそういうことがあったとしたら、その人たちの伝え方はめちゃくちゃアップデートされてるから、不安になったりせずに素直に採用することになるから安心して。

 

 

 

だから、世の中あるあるに対する基本的な選択としては、

 

 

今の自分の判断を信用して、それに対して全責任を持つ!!!

 

 

これに尽きる。

 

そんでもってその後で、

〝あの時の判断〟についてのフィードバックをすればいいわけだ。

そしたらまた経験値が上がる。

そしてまた、その時の最新版の自分の判断を信じて採用する。

 

この繰り返しでいい。

 

 

 

俺はこう決めてるから、

他人の戯れ言に惑わされなくて済む。

 

人に相談する必要もなくなる。

 

そしたら時間が節約できて、その分自分の思考を洗練させるために時間を使うことができる。

 

 

 

 

 

うーん、良いことしかない。

 

 

超オススメです(笑)

 

 

ね(川≦ °  )

理想を語る者だけが、そこに近づくことができる

自分の考えや理想を語ると、時として批判を受けることがある。





けれども、その批判に対して反論を重ねていけば、自分の意見はより強固なものになる。



だから声を小さくしてはいけない。

理想を語り続けなければならない。



それをやめてしまった者は、もうその理想に近づくことはできないのだから。







それでもね、やっぱボッコボコに批判されて、ついでに人格否定までされると、さすがにヘコむことがある。



あー俺間違ってんだ。こんなに言われなきゃいけないならもういいやって思ってしまうことがある。



でもね、

いくら現状が理想とかけ離れていようが、

口だけで行動が伴っていないと言われようが、

綺麗事ばっか並べているように見られようが、



理想を語り続けていれば、少しずつ自分の言動と行動の差は埋まっていく。



言ってることとやってることが違うってのは脳が気持ち悪がるから、

そういう時は脳が理想に近づくための判断機会を与えてくれる。



ほんとに。一旦止まるよ。あれ?これをこうしたら言ってることとやってることが矛盾するよなって。



理想を語ることを止めて、その他大勢の意見に流されてしまったら、もう脳は止まってくれないからね。





だから、夢を、理想を、語り続ける。





現実を理想に近づけるための行動は、言動と行動の差がある時に生まれるのだから。







つまり、



今の自分とは全く違うことを言い続けることは、自分がそこに近づくための正しい方法の一つってわけ。







誰に何言われたって別によくね?

無理だ無理だって言われたって関係なくね?

言動と行動の矛盾を指摘されたって、それが理想に近づくための伸びしろだってことで、逆に安心できるよ。

 



実際にできるかどうかはさておき、

何も言わないやつより、言ってるやつの方が可能性があるということを俺は主張したい。




そしてそういう人を見てる方が面白い。

俺もそういう見られ方をされたいと思うし。




主人公が何も語らずにただ日々を過ごすだけのドラマより、

主人公がビックマウスで壁に跳ね返されながらも少しずつ理想に近づいていくドラマの方が面白い。



 




人生ってなんなんだろって考えた時に、俺はこう思った。




人生はドラマだと。

面白いドラマだと。




俺は今、ドラマを面白く展開させられているか?

視聴者は俺。

俺が面白いと思うドラマは、誰がなんと言おうが面白い。

何人が見てるかより、誰が見てるかの方がいつだって大事。

俺が見るのをやめたら終わり。



まだまだこれからです。





ね(川≦ °  )

今の環境に適応して生きていますか?ちなみにそれっていいことだと思う?

初めて留置場に入った時、

その後拘置所へ移管となった時、

そして刑務所へ収監された時、

 

 

毎度のごとく、こんな所でやっていけるわけがない。長い時間を過ごせるわけがない。

 

 

そう思っていた。

 

一日経ち、また一日経ち、、、

と、いくら日が過ぎても辛さは変わらず、環境に慣れず、

先の見えない生活にいつ終わりが来るのか、俺は本当に外に出られるのか?

そんなことばかり考えて、嘆きながら日々を過ごしていた。

 

 

 

 

そんな俺だけど、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やはりいつの間にか環境には慣れていた(笑)

 

 

 

 

 

不思議なものですね。

気がつくと前を向いて無心になって生きているんですから。

 

刑務所内での部屋が変わろうが、作業場が変わろうが、他の人間が入れ代わり立ち代わりしようが、

 

 

 

 

 

 

 

必ず慣れる。

 

 

 

 

 

 

 

そして、ある時気がつく。

 

人間ってどんな悲惨な状況に居ても時間が経てば慣れるんだ・・・

あ、もしかしてこれが適応ってやつなのか?と。

 

きっとそう。これが適応ってやつで間違いない。

最初はアレルギー反応を起こそうとも、ストレスを強く感じようとも、

やはり一定の時間が経過すると慣れる。適応する。

 

俺は比較的適応能力が高いのではとの自負があるので、

それが功を奏したのか、刑務所内での評価も高いほうだった。

 

というか、トップオブトップだった(笑)

 

Ⅰ種1類といっても一般人には通じないんだけども、

プリズンカーストの頂点だと思ってもらえればわかりやすいでしょう。

(Ⅰ種~Ⅴ種、1類~5類まであり、刑務所内での行動制限の範囲が違う)

 

そのおかげもあってか、仮釈放もかなり早い時期に認められたと思う。

 

 

 

 

前置きが長くなったけど、もうさっさと主張しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

環境に適応した人間から、革命を起こす能力を失っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

環境に適応するのは生きていくためだし、それはそれで素晴らしい能力なんだけども、

でも、環境に適応してしまったら、その環境に変化を起こそうとする理由を失ってしまう。

行動する気概を失ってしまう。

より良き未来へのビジョンを失ってしまう。

 

反対に、環境に適応できない、しない人間は、その環境に変化を起こそうともがく。

もがいてもがいてもがいて、戦う。

自分が負けるか、既存の環境を負かすかの、人生を賭けた戦いに挑むことができる。

 

それはとても利己的で、周りの迷惑など少しも考えないような行いかもしれない。

けれども、いつだって社会に革命をもたらしてきたのは、現状に満足しない、

環境に適応しない人たちだったのではないか。

 

社会の縮図である刑務所というサンプリングされたコミュニティでもそれは同じだった。

やはり、声をあげるのは、変化を起こそうとするのは、環境に適応しきれていないはみ出したやつだった。

(矛盾するけど俺のことなんだよねこれ)

 

声をあげて変化を求めれば、それは革命の発端となる。

利己的すぎるほどに利己的に生きる人間が求める変化を社会が許容した時、

そこに進歩が生まれる。

 

 

 

俺は今の環境に適応しきって生きているだろうか?

いいや、不満だらけ、おかしなことだらけだ。

 

現状に満足して生きる?

そんなカスみたいな人生お断り。

俺は変化を求めて生きる。

 

革命を起こそうなんてつもりはないけど、環境に適応だけして生きていくつもりもない。

既存の環境に適応できないのなら、環境の方を変えてしまえばいい。

環境は変えられないって思ってしまうのなら、それは完全な思い込み。

どんな事象も変わりながらでしか維持できない。

目を見開いて、変化している様々なものを見なければいけない。

 

 

 

環境に適応できないやつは淘汰されるって?

 

そう考える人は自分で何も生み出せない人。

環境に依存した生き方に精を出して、淘汰されないようにしこしことしょぼい遺伝子を残していけばいいんじゃない。

 

 

 

俺は、例えクソ貧乏のまま何も残せず最悪な終わりを迎えようとも、

はみ出して生きる。

おかしいって言われ続けて生きる。

 

何かを差し出さないと、何も得られない。

俺は常識的な人生と外からの評価を差し出す。

 

手に入れたいものは明確だ。

 

新しい景色、すなわち変化だ!!!

 

 楽しすぎる。

 

 

 

ね(川≦ °  )