まつけつの仮釈中日記

おまつの仮釈中日記

大麻の密輸で懲役6年半務めた僕の回顧録的なブログ

友達となら起業するよりYouTube

先日、友人とYouTubeチャンネルを開設したのだが、

実はこの試み、起業の代替案という意味合いが強いものだった。

 

 

 

 

元々、俺も友人も学生時代から起業というものに憧れを抱き、仲間と楽しみながら稼ぎたいという気持ちを強く持っていた。

 

 

友人は実際に友人同士で起業していたし、俺も友人が起業した会社で働いたりしたのだが、

結論から言うとどれもうまくいかず、俺に関して言えば友人との関係性に禍根を残すような別れ方をしてしまっていた。

 

 

友人同士で同じ目標を共有し、同じ立場で働くことになったとしても、

仕事をしていく中で徐々にパワーバランスが形成されていく。

元々友人同士というフラットな関係性を持ってはいるものの、やはり組織の中では経営者の判断に圧倒的な力がある。

 

そうすると、徐々にではあるが友人としての関係性と、組織の中での関係性に矛盾が生じてくるわけだ。

 

その矛盾は不満に変わり、仕事をしていく中で、方針であったり金銭のことであったり、納得のいかないことが出てくるたびに増幅されていく。

 

こうなると、友人に対し、友人としての見方よりも、組織としての見え方ばかりが大きくなっていってしまう。

 

 

これはとても苦しいことである。

 

 

もはや友人はただの友人ではなく、利害関係が複雑化し、自己の利益を最大化させるための対象になっていってしまうわけだ。

 

 

やはり仕事というのは自己の利益を追求するために行っているのだなとつくづく思うのだが、そこに友人関係を持ち込んでしまった以上、関係性に亀裂が入ってしまうのは仕方のないことである。

 

 

うまくいってるときは良い。

問題はうまくいかなかったときだ。

 

当然のことながら、会社の経営というのは困難の連続である。

うまくいかないことが山ほどある。

 

そこに耐えうるだけの信頼関係、精神力が不足していれば、待ち受けているのは別れのみ。

 

こういった流れで別れを経験した人も少なくないはずだ。

 

 

 

友人同士での起業は難しい。

 

 

 

別れを覚悟でやらなければならない。

 

 

 

そこでYouTubeに話を戻すのだが、

YouTubeは仕事に似ている。

 

企画を練り、実行し、世間に公表する。

 

その反応を分析し、改善作業をしていく。

 

現状、金銭が発生していないので利害関係が複雑になることもなく、楽しく作業をすすめられる。

今後金銭が発生したとしても、お金の流れは簡潔であり、決め事が少なくて済む。

 

ここは友人関係を保つ上で非常にポジディブな点だと思う。

 

 

 

結論として、

友人同士でのYouTube活動は、起業に似た活動を、友人関係に亀裂を生じさせるリスクを軽減させた状態で実行できるとても楽しいものである。

 

 

 

おすすめなのである。

 

 

 

ね(川≦°  )

犯罪者ですがYouTube始めました

先日、友人とYouTubeにチャンネルを開設し、動画投稿を始めた。

 

 

俺が逮捕された2012年当時、YouTubeはもちろん巨大な動画プラットフォー厶だったんだけど、今みたいにYouTuberと呼ばれる職業の知名度はなかった。

 

 

なので、出所してからのYouTuberなる人たちの知名度には驚かされた。

 

あまりにもYouTuberという言葉を聞くので、興味を持って何度か動画を視聴したりもしたのだけど、視聴を継続する価値を感じることはなかった。

 

そんなこんなでYouTuberに対して思うことは特になく仮釈放から2年が経過したわけだが、

簡単に動画投稿ができ、自らの専門性を発信できるチャネルというもの自体には興味があり、頭の片隅に「YouTubeでのチャンネル開設」というものがあったのは確かだった。

 

 

あまりにもYouTubeが普及したことから、普段の会話においても何か興味を引くような話をしたものなら、必ずと言っていいほどYouTubeを始めたら?と言われるようになった。

 

 

それはつまり、面白いものをみんなで共有したいということが本質なんだと思う。

それに付随して、身近な人が知名度を獲得すれば自分の承認欲求が満たされるということもある。

 

 

俺自身の承認欲求を満たすこと、身近な人たちの承認欲求を満たすこと、そしてアウトプットをすることで自己を成長させること、様々な欲望を実現させるため、今回YouTubeにチャンネル開設をするに至った。

 

 

そこには俺の友人がYouTuberとして活躍している事実も後押ししていたりと、きっかけは無数にあったので、かなり遅めの行動になったことは否めない。

 

 

それでもやはり、今回新たな挑戦ができたこと、何より大切な行動ができたことをここに表明したい。

 

 

その行動に価値をもたせるために、コンテンツを考え、見せ方を考え、日々動画投稿を続けていこうと思う。

 

 

まず行動すれば、その行動に価値を持たせようと頭が動くわけだ。

 

 

俺に専門性などはないし、現在投稿している動画だって使用しているリソースは最小限。

それでも支持し、応援してくれる人たちがいるということを事実として受け止め、向上していきたいという気持ちが芽生えた。

 

 

そして、俺と友人のこの行動が身近な人たちへのポジティブな刺激となり、二の足を踏んでいる状態を脱するきっかけになれば嬉しく思う。

 

 

YouTubeのチャンネル開設、動画投稿の方法についても動画の中で簡単にではあるけど触れているのでぜひチェックしてほしい。

 

 

俺自身は元犯罪者で刑務所に6年間入っていたネガティブな経験を持ってはいるんだけれど、それすらポジティブな材料に変えて、社会での自由を謳歌していこうとしている。

 

 

俺より社会的にネガティブな経験を持った人なんてなかなかいないでしょ?だからなんだってできるよきっと!

 

 

みんなどんどんチャレンジして、面白いことをして、どんな形であっても自分の欲望を実現させていけばいいと思う。

※犯罪はだめです

 

 

 

このブログも、YouTubeも、読者・視聴者にとって価値のあるものにしていこうと思う。

 

 

 

少なくとも、俺が視聴してくだらないなと思ったYouTuberみたいにはならない自信はある(笑)

 

 

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ね(川≦°  )

刑務所で友達はできるのか

出所してからよく聞かれることの1つに、

 

 

「刑務所で友達はできた?」

 

 

というものがある。

 

できてない、と即答するのだが、理由については過去エントリにも書いたように、基本的に気の合う人間と出会うことが圧倒的に少ないことがあった。

(過去エントリ「刑務所でサンプリングについて考えた」https://matsuketsu.hatenadiary.jp/entry/2019/01/27/184151 )

 

中には、塀の中で友達をバンバン作って出所後も遊んでいる連中がいたりするのだが、地元が同じだったり、罪名が同じだったりするケースが多いように思う。覚醒剤の使用とかね。

 

 

俺は国内の有名私立大学を中退してから密輸という重犯罪に走ってることもあり、一定の学歴、類似した犯罪、どちらを取っても比較的少数派だったので、なかなか会話が合うことがなかった。

 

 

ただ、最終的に刑期を務めた刑務所が半開放の半官半民施設だったため、他の受刑者とコミュニケーションを取ることが施設のコンセプトからも強く求められていた。

 

なので、表面上会話を合わせることはよくしており、その結果周りから仲良くしていると見られるケースは多々あったように思う。

 

だからといってその人たちと連絡先を交換して出所後も付き合おうという風に思うことは滅多になく、友達ができた、という感覚を覚えることもなかったわけだ。

 

ちなみにそういうことをすると、刑務所的には不良交友と表現され、仮釈放の取り消しに繋がる可能性がある危険行為だったりするので気をつけていた部分もある。

 

 

そんなこんなで刑務所で友達ができることはないし作ろうという気にもならなかったんだけど、っていうのもほんとにろくな人間がいないからさ、俺含め(笑)

 

 

ところが、こんな俺でも出所後に何度か元同囚に会っている。

 

 

帰住地である地元を歩いていたとき、前方から自転車を漕いできたおっさんが1人目の元同囚、

 

 

仮釈中に六本木で飲んでいたときに飲食店で会ったのが元同囚、

その元同囚が一緒にいたのも元同囚、

更に違う機会にまた六本木で会ったのも元同囚、

 

 

 

上京してから恵比寿のマンションを使わせてくれたのも元同囚、

 

 

 

SNSで俺を見つけて連絡を取ってきたのも元同囚、

 

 

 

大江戸線で横に居た若い兄ちゃんに声をかけられたらそれも元同囚、

 

 

 

というように、なんだかんだで出所後社会に出てから同囚に会う機会はかなり多かった。

 

そしてその人たちは尊敬できる部分もあったり、俺に好意を持ってくれていたり、何より見事に社会復帰をしているところからある程度信用ができる人たちだったりする。

 

 

かなり受け身な記述をしているけど、俺自身が様々な邂逅に対して積極的になったという事実も多いにあり、その人たちのおかげで今の自分があったりもする。

 

 

結果的に言えるのは、友達をつくろうとしていなくても、出所後に出会う人とは出会い、繋がりができるものなのだ。

 

 

自分が元受刑者だったこともあり、元受刑者を見る目には自信がある。

 

 

この自由な社会において、ともに苦しみ学んだ人たちと、その経験を酒の肴にしながら飲める時間というのは自分を見直すとてもいいきっかけになっていたりもする。

 

 

こんな楽しみ方、他の人にはなかなかできないので、意外といいものなのだ。

 

 

 

 

 

 

気づきましたか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

友達ができているのです(笑)

 

 

ね(川≦°  )

仮釈放から2年3ヶ月経過した元受刑者の生活

塀の外へ出てから、2年以上が経過した。

 

月日が経つのは早いもので、2017年11月1日仮釈放当日に見たあの風景もぼんやりとしたものになってきている。

 

痩せ細った坊主頭で、不安を抱えた当時の自分の姿が脳裏に浮かぶが、今となってはすっかり過去の話になっている。

 

 

 

 

 

 

本当に長い長い懲役生活だった。

 

 

 

 

塀の中で夢想した理想の自分とは程遠い生活をしている現在を簡単に評価すると、

 

 

意志薄弱、ということになると思う。

 

 

理想の自分を思い浮かべ、塀の外へ出ればなんでもできる!と思っていた自分は、甘かった。

 

当時は、今はこれしかないから、これができないから、と言い訳を見つけては行動を起こさない自分を正当化していただけなのかもしれない。

 

 

 

 

 

やはり行動にしか価値はない。

 

 

 

 

 

思考することは大事だけど、思考だけでは何も手に入れることはできない。

 

 

 

塀の中だろうが外だろうが、行動できない人間が語る夢には価値がつかない。

 

 

前頭葉が働いているのなら、他人に啓発される必要なんてない。

自己啓発本なんか読んでやる気が出ているようならば、その時点で思考が停止している。

 

 

結局、自分で自分を教育し、行動していくしかないんだ。

 

他人の言葉で動くのなら、同じく他人の言葉でいとも簡単に動かなくなるし、根本的に自分の頭で考えてはいないので長くは続かないだろうし、カモられることも多いはず。

 

 

 

僕は出所してから新聞を読まなくなった。

日記を書かなくなった。

本を読まなくなった。

 

 

 

変わりにネットサーフィンをし、

くだらないYouTubeのコンテンツを漁り、

暇があればギャンブルに勤しむようになった。

 

 

 

出所してからの2年間で自分の中に蓄積されたものがなにもない。

 

どう考えても娑婆の方が効率的に物事を学べるはずのに、自由に自分の行動を決められる今の方が生産性が下がっているというのは明らかに怠惰。

 

 

 

そういう意味では、懲役生活中の自分の読書量や筆記量は評価できる。

あの頃の蓄積のおかげで助かったことは娑婆に出てきてから何度もあった。

 

 

 

そして今、刑務所での生活をある程度踏襲しよと本を買い、安いノートとペンを常に持ち歩くようになった。

 

あの頃編み出した最もアウトプットしやすい筆記のひな形をノート内に採用し、当時を思い出しながらここ数日を過ごしているのだが、

 

 

すごく心地がいい。

 

 

この感覚、この感覚!

 

 

近道なんてない。

地道に、かつ頭を使い、自らの生産性を上げ続けていくことでしか理想へは近づけないのだ。

 

 

 

仕切り直しはいつでも可能。

ただ、もちろん早ければ早い方がいい。

 

 

今日の自分が一番若いのだ。

 

 

ね(川≦°  )

彼女なんて必要ないと7年言い続けた俺に彼女ができた理由

2019年4月、彼女ができました。

 


できましたって言うと、今までは欲しかったのにできなかったんだねって感じに聞こえるけど、

決してそうではなくて、意図して作っていなかったってのが実態です。

 


その辺の詳細、僕の考え方については過去エントリ参照。http://matsuketsu.hatenadiary.jp/entry/2018/08/27/122239

 


ほとんどが刑務所に入っていた期間ではあるんだけど、僕に彼女ができたのは結果として、

7年以上ぶりのことでした。

 


出所してから彼女をつくるに至るまでの1年5ヶ月の間、女性に対して何度か感情的になったこともあった。

 

あったんだけど、感情が理性に勝ることは一度としてなく、彼女をつくりたい、この人と付き合いたい!と思うことはなかった。

 


生涯独身で過ごすつもり⇒その前段階である彼女を作る必要性がない⇒誰とも付き合わない

 


という帰結は僕にとって腑に落ちるものだったのでそのまま実行していたんだけど、

情緒が安定していない僕は度々女性を、快楽のためだったり、束の間の安心を得るためだったりして、求めることがあった。

 


でさ、そこで毎回そういうことができればいいんだけど、そうじゃない時ってのも往々にしてあったわけ。

 

そういう時には、彼女がいればなって考えたりもしたんだよね。赤裸々な告白してるけども。

 


でも、それって将来的な目標からの逆算をして出した結論じゃないから、かかるコストがただの浪費になる。

 

僕は、自分の理想に近づくために使える資源を、ただ欲望を満たすためだけに浪費したくなかった。

 

彼女なんかつくったら、精神的にも金銭的にも負担が大きくてそこに人生の時間が大きく奪われてしまう。

 

6年間の遅れを抱えた僕は、決してそんなことをしている場合ではなかった。

 


そうこうしている内に刑期満了の日を迎え、移動の自由を得た僕は都内で就職をし、帰住地である地元大阪を離れた。

 


東京という地に足を踏み入れた僕には全てが新鮮で、毎日本当に楽しくて、お金はなくとも希望があって、今もそれは変わらない(悩みは多いけど。行動あるのみ!)。

 

だって、毎日塀の中で『るるぶMAP東京』を眺めながら、ああでもないこうでもないって夢想していた日々が現実になってるんだよ。

 

僕にとって東京で生活するということは、あの辛かった6年間が過去のものになったってことの証明でもあって、行動するためのモチベーションでもある。

 


話が横道に逸れたけど、そんな街、東京で出会った女性と、僕は今付き合っている。(臭い。臭すぎる)

 


で、肝心の理由なんだけど。

 

僕が決意を翻した理由については、僕の心の変遷について順を追って説明する必要がある。そちらについては別エントリに記載したいので後日。

 


なので今回はその理由を簡単にまとめておこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家族が欲しくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その一言に尽きるのかもしれない。

 

 

 

付き合うことを決める前に、何度も自問自答した。

 


ただ感情的になって盛り上がってるだけじゃないのか?

 

感情を基にした決断は、感情の変化によって簡単に覆る。

 


この人と付き合って何がしたいんだ?

 

目的のない交際はただの浪費だ。

 


僕と付き合うことで、相手にどんな利害が発生する?

 

相手の意思や生活を尊重できないのなら、その関係性が良いものになることはない。

 

 


思考を繰り返して出た答えは、この人と付き合いたいというありふれたものだったんだけれども、これまでとは全く種類の違う、意味のある"付き合いたい"だった。

 


めちゃくちゃ不器用だし、生きるのが下手くそだし、性格も難だらけの人なんだけど、僕はこの人に自分の資源を使うことを決めた。

 


この人と共有する今と未来を、僕の生きる目的の一つにした。

 


ではなぜその人を選んだのかってことなんだけど、

それについては僕が彼女をつくった理由とは別の話になるし、何よりいわゆる惚気話になってしまうので自粛しておこうかと思う。

 


勿論、既に十分な惚気話になっているということには気がつかないふりをする。

 

 

 

 


さてさて、これでもう彼女なんていらないってドヤ顔で語ったって説得力がなくなってしまうな。

 


それでもやはり、多くの人にとって恋愛は非常に無駄の多い高コスト低エネルギー高リスクな選択であると思うよ。

 


大概目的の設定や意思の共有をしてないもんな。

そんなことよりやることあるでしょって。

人生は有限なんだから、どうせ終わる関係性に資源を使わずに生産性を上げていかないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほら、全然説得力がない(笑)

 

 

 

ね(川≦°  )

刑務所でサンプリングについて考えた

約6年間、塀の中に居た僕だけど、毎日毎日刑務作業だけをして過ごしてきたわけじゃない。

 

 

刑務所には余暇時間というものがあって、その時間帯はある程度制限が緩和されて、各々が好きなように過ごすことができる。とは言え、できることは限られているのだが…

 

 

僕の場合、その時間の大半を読書にあててきた。

 

 

テレビ視聴や受刑者同士の雑談、囲碁や将棋にといくつかの選択肢がある中から、僕はひたすらに読書を選択してきた。

 

 

理由は簡単。一番楽しかったからだ。

 

 

刑務所に入ると、これはほとんどの受刑者にあてはまることなんだけど、まず間違いなく娑婆に居た頃よりも読書量が増える。

 

情報量が減る上に娯楽もなくなることで、読書という選択肢が一気に身近になり、このような現象が起こる。

 

つまり、刑務所というのはどんな人間性のやつでも、「いっちょ本でも読んでやるか」と思ってしまうくらい退屈な場所だということだ。

 

 

そんなこんなで、僕の場合は娑婆に居た頃よりも圧倒的に読書量が増え、加えてその時々で興味が湧いたジャンルの本を幅広く読んだため、これまでの自分なら到底読まなかったであろう内容の本もたくさん読んだ。

 

 

そしてあるとき、こんな本を手に取ったわけだ。

 

 

 

 『統計学が最強の学問である』

 

正直詳しいことはわからない。読後の感想としても、なんだかんだと書いてあったけど、一般読者としてはもっと実践的な統計学の利用方法など、身近に感じられる記述が欲しかったなと感じ、なんだかなあと思ったことを今でも記憶している。

 

 

ただ一つだけ、鮮明に記憶に残った統計学の理論があった。

 

 

 

”サンプリング”

 

 

 

である。

サンプリングとは、簡単に言うと母集団から標本を抽出して調査し、そこから母集団の性質を統計的に推定する方法のことなのだが、

 

1000人の中から100人のデータを抜いて調査すれば、1000人全員を調査しなくても大体のことがわかるものだとイメージしてもらえればわかりやすいかと思う。

 

 

で、このサンプリングがなぜ僕の記憶に残ったのかというと、僕が居た場所、つまり刑務所は、日本社会という母集団から、標本として抽出された人間が集まった場所だったから。

 

 

ってことは、刑務所の中でのカースト的なものや、人間性の分類みたいなものって、もっと大きな数字の日本社会という母集団にあてはめて考えてみても、さほど変わらないんじゃないかって思ったのね。

 

 

つまり、刑務所という日本社会のミニチュア版では、社会の全体像を把握することが容易になっていたわけだ。

 

 

そんな中で、僕がこれは外の社会でも同じだろうなと強く思ったことが、僕が勝手に作った人間の分布。

 

 

クソくだらない人間 : 8割

普通の人 : 1.5割

僕と気の合う人間 : 0.4割

すげぇ人 : 0.1割

 

 

刑務所の中で僕が他の受刑者とあまりつるまなかった理由がこの数字に表されていて、95%の人間に対して、僕は興味を抱くことがなかったからだ。

 

クソくだらねぇやつとか、普通のやつとかと話していても本当につまらないし、時間の無駄だし、マジで話しかけないでくれっていつも思っていたので結構ストレスがたまっていたんだけど、たまにいる気の合う人や、え?なにこの人すごいって思える人とは割りと積極的に話した。

 

犯罪者というかなりバイアスがかかった標本で採った感覚的なデータではあるけど、これは外の世界でもほとんど変わらない分布なのではと今でも思っている。

 

 

「絶対外でもそうだよなーすげーなーサンプリングー」って思っていたので、これがすごく印象深いって話なんだけど、共感は得られないよねきっと(笑)

 

 

まあ何が言いたいかっていうと、刑務所は社会の縮図だってこと。

刑務所も娑婆も仕組みや性質は大差ないってこと。

 

 

娑婆でなんとなく一緒にいる人とか仕方なく一緒にいる人って、きっと刑務所では一緒にいることのなかった人たちなんだと思う。

 

感覚が研ぎ澄まされてるから、自分と気の合わない人といるデメリットにストレスを強く感じて、自ら距離を置くことができるのが刑務所。

 

反対に娑婆では、感覚が鈍りがちなので、近くにいるからというような理由でどうでもいい人と接しがち。自分の時間を失っていることに気がつかないケースが多々あると思う。

 

 

今自分は誰と付き合っているのか?

その人は自分と気が合う人なのか?すげぇなって思える人なのか?

 

 

刑務所での生活を振り返ることで、改めて自分にこういう問いを投げかけることができる。

 

 

どうでもいい人とどうでもいい時間を過ごさないように。

時間は有限、人生は巻き戻せない。

学びを実践に。

 

 

 

 

ね(川≦ °  ) 

 

インスタの弊害とその対処法

皆さんご存知”Instagram"。

 

 

僕が逮捕された2012年1月当時は全く流行っていなかったアプリなんだけど、出所してみたらどこもかしこもインスタばえを求めるギャルたちで溢れかえっていたんだっけ・・・(そんなことはないか)

 

 

仮出所した当時は、インスタ?なにそれ食べれるの?みたいなスタンスを崩さずに、とにかく生きた情報を手に入れようとたくさんの友人に話を聞いてまわったんだけど、いまいち魅力がわからなかったインスタ。

 

 

6年間ずっと紙媒体から情報を得ていた僕にとって、画像から得られる情報って本当に少なく感じられて、一体みんな画像にどんな情報を求めているの?ふーむ、謎だ。としか思っていなかった。だから登録もしていなかった。

 

 

そんな僕がインスタを始めるきっかけとなった友人の言葉がある。それは・・・

 

 

「女の子と繋がるきっかけになるよ。インスタ。」

 

 

である。

 

友人曰く、かわいい子はもれなくインスタをやっていると。

なのでかわいい子と知り合った際に、こちらがインスタをやっているかどうかは今後の関係性を発展させていく上でかなり大きな重要性を持っている。

インスタ上での絡みによって親密度が上がって、あんなことやこんなことに繋がること、意外と多いんだぜ?とのことだった。

 

 

6年間悶々とした日々を過ごしてきた僕にとって、インスタについてこんな風に語る友人の姿はとても神々しく見えたわけだ。

 

 

そうして張り切りまくってインスタに参加した僕だったが、先日、1年2ヶ月程楽しんだインスタを退会する運びとなった。

 

 

結果的にあの時の友人の言葉は正しく、インスタを通して男女問わず古い友人から新しく出会った人まで、多くの人達と親密度を上げることができた。

 

 

と同時に、ストーリーズという機能によって、フォローしている人たちの日常をリアルタイムで追うことができたり、また、自らの自己顕示欲を発散するために頻繁に短い動画をアップしてしまうことで、かなりの時間を浪費してしまっていた。

 

 

本当に多くの時間を浪費してしまっていた。

 

 

暇があってもなくてもインスタを開いてしまう、そういう病にかかっていた。

 

 

そして、そこから得られる情報といえば、友人たちの日常、、、ただそれだけだった。

ドーパミンは出るんだけど、実際にそこから得られるものなんてほとんどなかったわけだ。

わかっていても開いてしまう、見てしまう、そういうのは本当に薬物やゲームなんかと同じなんだと思う。

 

 

ってことでスッパリとインスタをやめてみたんだけど、、、

 

 

 

 

 

 

めちゃいい!!!

 

 

 

 

 

インスタをやめてからは、ずっと読まずに溜まっていた有料メルマガや、ニュースアプリの記事、ツイッターなんかをインスタのかわりに開くようになって、入ってくる情報の質がかなり改善された。

本当にいい。これは例えるなら薬物依存者が薬物から抜け出して、朝早起きして太陽を浴びて、あぁ、気持ちいいなぁ・・・って思う感覚!!!(知らんけど)

 

 

そうすると、生活にハリが出てくる。インスタを開きまくることで思考停止していた脳がまた少しずつ動き出してくる。

 

 

もちろんインスタ自体を否定しているわけではない。インスタを使うことで様々な価値を生み出している人も多いし、実際得られる情報ってのもある。

でも、あえて言いたい。

おそらくほとんどのユーザーがカモられている、と。

 

 

インスタにログインしている時間対効果を考えてみてほしい。

その時間でどんな情報を得られたのか、それは自分の人生にどのように役に立つのか。

自分が発信している情報は誰にとってどんな価値があるのか。

インスタが商売に繋がっていない人にとってはゲームと同じでほとんど時間の無駄になっているんじゃないかな。

 

 

そんなことないよ!って人はそれでいいし、確かにそうかもしれない・・・って思う人はすぐにやめるべきだと思う。人生は短い。より有意義なことに時間を使うべきだよ。

 

 

 

さて、皆さんはどうでしょうか。

 

 

 

ね(川≦ °  )